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死を観察することから、生の指針を考える

 

小さい頃から

地球が滅亡したら、わたしはどこに行くのだろうと漠然と考えていた。

 

その時の幼いわたしの脳内にはいつも同じ映像。

 

この星が消滅し、もちろん自分の肉体も消滅した時に、

意識だけが宇宙空間に放り出される、そんなイメージ。

 

頭の中で頻繁に繰り返されるけど、

別の何かに生まれ直すという発想はなぜかどうしても湧かなくて、

このままずっとここを漂うだけなのだろうか…と怖くて、

ぎゅっと目を瞑りイメージを強制終了させる。

 

そんなことを繰り返していた。

 

あれから30年。わたしは海獣の子供という作品に出会った。

 

そこでようやく、幼き日々に感じたあの恐怖から解放されたのでした。

 

 

 

***

 

ひとつの個体が終わる(die)と、

分解されながら(生きている他の個体に恩恵や影響を与えながら)また原初(宇宙の始まり)に戻る。

 

それがこの星が生まれるずっと昔から宇宙において幾年も繰り返されてきた命の循環。

 

我々は、その中のほんの一部でしかない。

地球という星に存在するヒトという種族。

あくまでも「一部でしかない」し「単なる一種でしかない」のだ。

 

とはいえ大切なのはバランスで、それが崩れるとすべてが崩れることになる。

 

だからまず始めにいっておこう。

 

必要のないものは存在できない訳だから、

我々ヒトが存在を許されている=必要であるからであり、

「良くも悪くも」多種に影響を与えていて、

「良くも悪くも」命の循環のバランスをとって存在しているということになる。

 

さらにいえば

「何が良くて何が悪いか」などということはおそらく「あってないようなもの」で、

この大きな循環の中ではその議論はあまり意味をなさないように思う。

 

趣味や興奮や自慢のためにライオンを殺してみたり、

高く売れる牙が欲しいがために象を殺したり、

たくさんの動植物の命を奪うだけ奪った割には食品ロスは増えるばかりだったり…

挙げればきりがないけれども、一つだけ確かな事は、

どれもこれもヒトが愚かで未熟な種族であるという事。これだけは確かだ。

 

わたしたちは 何も見えていないのと同じ

 

ヒトは弱い。弱くて脆くて愚かしい。

何も見えていないくせに異形なものや未知のものを信じない。信じたくないから攻撃する。

人種差別など存在するあらゆる差別がその典型。

さらにいえば除菌もそう。

手のひらには、私たち人間が見えていないだけで小さな生物たちの宇宙があり、

少なからず我々ヒトに恩恵をもたらしてくれるものも確実に存在しているというのに、

菌というだけで一括りに毛嫌いし、

良し悪し関係なく徹底除菌しようとする。

想像や想定の内側でしか安心できず、

外のものを恐れすぎて徹底して排除しようとする。

今回のウィルスも同様。

今まで当たり前にあった生活が突然一変する事で危機を感じ、なにも本質も見ないままに遮二無二必死になる。

しかし言ってみれば、

こんな事は自然界においては日常茶飯事なのだ。

ある日突然家族を、住処を、故郷を人間に奪われた種は山ほどいる。

もちろんヒト同士での土地や命の奪い合いも未だ終わらない。

つまり、ヒトが愚かじゃなかった時代なんてなかったのだろう。

 

でも、それなのに。

何故か、それでも今、ヒトは存在が許されているのだ。

 

もしその壮大な命の循環を回している(管理している)存在が在るのだとしたら、

神(God)であったり、光(Light)であったり、太陽(Sun)であったり、それは様々な界隈で様々な呼び方で表現されていたりする「それ」なのだとしたら、その存在は本当に器が大きいなと思う。

(この時点で既に非常に人間的な思考なんだろうけれども)

とにかく害虫にも存在意義はあるのだ。あるから存在できる。

 

ある種が滅べば、また新たな進化をする種もあり、環境に適応した新種が誕生したりまた絶滅しながらも何かを生み出しながら、命の循環は今も続いている。

 

 

 

***

 

海の生き物は、陸に上げられ食されることもあれど、基本的には海で生きて、死んでゆく。

死すればその肉体は、他の海の生き物たちに食され、分解され、プランクトンが増え、それがまた餌となり、サンゴや海藻も喜び、海が豊かになってゆく。

生ける者たちの『命の糧』となるわけだ。

これもまた小さなひとつの命の循環で、自然なことだ。

 

陸の生き物は、水に溺れ死ぬことはあれど、基本的には陸で生きて、死んでゆく。

死すればその肉体は、他の生き物たちに食され、腐敗し微生物や菌が喜び、土が豊かになって植物達の命の糧ともなり、呼吸して大気をきれいにしてゆく。

これもまた小さなひとつの命の循環で、自然なことだ。

 

 

さて、

その沢山の死から循環する海や大地や植物たちの恩恵を散々受けまくってきたヒトという種族はどうだろう。

 

ヒトの一生は、全体からみればほんの一瞬でしかない。(他種も同様だが)

生まれ、そして一瞬で死んでゆく。

私たちはその一瞬で何を循環できるのだろうか。

 

弔いの方法として、

海外だと身分によって火葬だったり水葬だったりする国や、中には鳥葬といって、大きな鳥の群に遺体を置きに行く(食べてもらう)という文化の地域もあると聞いたことがある。

 

きっとそれなら循環の一助になっているのだろうなぁと個人的には思う。(物理的に他の生き物の糧になるから)

 

日本は昔は土葬が主だったが、現代の日本は

ひとつの個体が終わりを迎えると、すぐに肉体を焼き、骨壷に入れ、お墓に納める。

このような火葬文化のわたしたちは、物理的に他の生命に恩恵(食べることで命の糧にしたり住処にして子孫を残したり)を与えることは難しい。

最近ポピュラーになりつつある樹木葬なんかも、結局火葬してから遺灰を埋めるのだから骨壺を墓に納めるよりはまだ少しは循環の役にはたっているのかなとか、じゃあ散骨は?って海の生き物たちは遺灰(骨)なんか喜ぶのかな?とか(笑)まぁ、そんなことをよく考えています。

(それで行き着いた先が、当アトリエが行っているサービス美葬な訳です)

 

だからといって土葬に戻しましょうとか海に身投げするとかそういうことではなく、

そんな我々現代の人間が命のサイクルの中で何を残せるのか…

 

考えに考えた結論は、

 

死んだ後に貢献できないかわりに

生きているうちに、たくさんの良い影響を残すことなのだろうなぁという事

 

単純に子孫を遺すここともひとつ、

取り巻く人達をより良く導くこともひとつ、

環境を改善アクションをとることもひとつ。

 

何をするか、選ぶか、どう生きるかは自分次第。

大きな循環からしてみたら、私たち一個人がどう生きるかなんて、砂浜の砂粒が風で揺らめくこと程度のことでしかなく、まったくもって大したことのないこと。

 

そんな単なる砂粒程でしかない私たちだけど、

夢を持ち懸命に努力することや、子どもたちを愛でることや、大きな声で歌い笑い合う事は、大きな循環の一助に確実になる。

 

愛や喜びの波紋は広がるし、夢や情熱は人の心を動かす。

 

無駄なことなんて絶対に無くて、

大きな循環の中の一部に過ぎない私たちだけれども、

それでも懸命に走ることに「砂粒のくせに滑稽だ」なんて言う奴は、

大きな循環の中には誰一人として居ませんから!

(居るとしたら、人間くらいです)

(砂粒同士でみっともない!そんな奴は放っとけ!笑)

 

 

懸命に生きる砂粒は、美しいです。

 

キラキラと。

 

 

きっとそうした美しいものの周りには、

 

死してなお、

 

美しさが継承されていきます。

 

 

***

 

これから新時代が来ます。

これまでのあらゆる価値観がマルッと変わります。

今は、そのための土壌改良のような時間です。

 

大きな循環の視点からしたら、あらゆる生態系でこのようなことは日常茶飯事に起こっていることに過ぎません。

 

 

今、生きている。

むしろ今この一瞬しか生きられない。

 

死を考察することで、人生の意義から、

どう生きるかなど、長々と考察しました。

 

何かを遺し切れていないヒトは、

 

死んではダメです。

 

マスクをして、自宅に篭って、大切な人を守りましょう。

 

 

長文お読みいただきありがとうございました

 

 

 

***

 

 

(わたしごと)

 

新型コロナウィルスの感染拡大にあたり

私が住む地域も緊急事態宣言が発令され

いよいよ明日から幼稚園も休園が決まりました。

 

明日からは小学生と幼稚園児の2人娘と過ごす時間となります。大義を見据えた行動を意識して、子どもたちとの時間を大切にしたいと思います。

 

例にも漏れず我が家も所謂【マスク2枚世帯】ですが(これに関しては苦笑いしかでませんが)国に頼らず、自分が今やるべきことややりたい事で自立する生き方を懸命にやります。

 

こんな時こそ恐れや不安に巻かれるのではなく、

この時間をありがたく受け入れ、より良く切り替える方法を探してみてはいかがでしょうか。

 

 

RIU

 

#atelierrtam #riublog